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夜間中学生交流の場


じっくりクラスの作文発表(さくぶんはっぴょう)


仕事をして五十年

高橋トコ 


私は、青森で生まれ育ちました。父は私が生後五ヶ月の時に亡くなりました。私は末っ子だったので、さびしく悲しい日々でした。今思い出せば、母によく尋ねたものでした。「なぜ私に父がいないの?」と。母は、父が皇居のおやしろにお勤めし、病気で亡くなったと話してくれました。父は島津家の出身でした。その母も私が十九歳の時になくなりました。その後も兄の家族と一緒に生活し、家業(かぎょう)の農家を手伝っていました。そんな私を心配して、札幌に嫁いでいた姉が「子どもが生まれるので手伝ってほしい。」というのを口実(こうじつ)に、札幌に呼んでくれました。それで、私は二十二歳の時に、青森から札幌に来たのです。

札幌に来てまもなく、家にいると、古新聞を集めに来たおじさんに、「お姉さん、仕事しないの?病院で看護助手を探していて、誰かいないかと頼まれているのだけれど、働いてみないかい?」と言われて、「あら、仕事したいね。」と言うと、「明日にでも直接面接に行って。」と言われました。「ところでどんな仕事をするの?」ときくと、「助産婦さんの手伝いで、赤ちゃんをお風呂に入れたり、足型を取ったり、体重を量ったりする仕事なんだよ。」と言うので、「おっかないねエ。」と言うと、「なんもおっかなくないから、とにかく行って婦長さんにあってみて欲しい。」と言われたので、翌日病院に行くことに決めました。

病院に行って、白衣を着た看護婦さんを見ただけでも、緊張して胸がドキドキしました。それでも、婦長さんたち三人との面接を受けました。「病院の仕事は初めてなので、心配です。」と言うと「そんなに心配しなくとも大丈夫ですよ。ちゃんと先輩や指導者がついて一つ一つ教えるから。」と言われ、その(ほか)にもいろいろ説明してくれて、その後、手術室や分娩室、その他病院内の施設も案内してくれました。でも私は、畑仕事以外の仕事に就いたことが無かったので、緊張しすぎて、婦長さんの顔も何を話してくれたかも良く憶えていませんでしたが、とにかく看護助手として翌日から勤めことになりました。

配属先は産科です。赤ちゃんを入浴させたり、足型を取ったり、妊婦さんが移動する時にストレッチャーを押したりする、助産婦さんの手伝いをする仕事です。当時産科はすごく忙しくて、一日に十二人から十五人もの赤ちゃんが生まれた日もあったほどです。面接の時には「一ヶ月くらいは先輩の仕事を見ていて下さいね。」と言われたのに、初めて出勤したその日に、夜勤の助産婦さんや助手さんが帰った後すぐに「体重・身長・胸囲を黒板にチョークで書いて!」とか「膿盆持ってきて!」「長ピンをとって」と急に言われて、何が何だかわからず、ビックリしてブルブル震えているだけでした。後になって知ったのですが、この時生まれた赤ちゃんは、病院はじまって以来の大きな赤ちゃんで、生後五ヶ月くらいの大きさだったので、着せる産着(うぶぎ)が無かったほどです。それなのに、後日(ごじつ)そのお母さんが、初産だったのに「お産はそれほど大変じやなかったよ。」と言っているのを聞いて、びっくりしました。助産婦さんも、赤ちゃんが大きくて大変な状況(じょうきょう)だったので、私に気を配るゆとりもなかったのでしょうが、お産を見たのも初めてで、助産婦さんがへその緒を切るのを見たのもはじめてでした。医療器具の名前もわからないし、チョークを持ったこともなく、全てがはじめての体験で、びっくりすることだらけでした。余りにもびっくりして何も出来なかったので、翌日仕事に行ったら「もうやめていいよ。」と言われるかと思っていましたが、何も言われず、働くことが出来ました。

私が一番若かったので、他の助産婦さんや婦長さんたちから「青森から来た若いトンちゃん、トンちゃん。」と可愛がられて親切にしてもらったことを思い出します。それでも、自分に自信がなく、何も出来ないと思っていましたので、「今日は辞めよう。」とか「いや、もう少しがんばってみよう。」とか思いながら、五年間働きました。病院で働きながら、二十七で結婚し、翌年には子どもが生まれました。

看護のこともきちんと学びたくて、病院を辞めて、横浜市の病院へ勉強をしに行きました。そこへ行くのを決めたのは、新聞に「見習いをする人募集」と書いてあったからです。どうしても勉強をしたくて、次男が生まれてまだ二歳にもなっていませんでしたが、夫にも内緒で決めました。

千歳空港から飛行機に乗る時、家族に内緒できてしまったのと、初めて飛行機に乗るので、嬉しいような心配なような気持ちで、飛行機の窓の外を見ながら泣いてしまいました。そうしたら、スチュワーデスさんが「どうして泣いているのですか?」と()いたので訳を話すと慰(なぐさ)めてくれて、飛行機に乗った記念にと写真を写してくれました。

黙って行ってしまったので、家の人も横浜の人もびっくりしていました。横浜に着いてから夫に電話をしたら「最近なんだかそわそわしていたのでおかしいと思っていたんだ。」と言われました。夫もお姑さんも理解してくれて、子どもの面倒を見てくれました。横浜の病院では、手術室・内科・産科・精神科・小児科と勤務しましたが、一番長く働いたのは内科です。仕事で動き回っていると、患者さんの中には「あんたはいつも忙しく動き回っているけれど、今日洗濯物が干せるかどうか新聞の天気予報を読んであげるから。」と言って、寝ながら新聞を見て天気予報が載っているところを出そうとするのですが、グチャグチャに丸まって読めなくなってしまっているのに、それでも一生懸命読もうとしてくれた親切なおじいちゃんもいました。また、「あんた、北海道に帰らないでね。看護してもらっている人に『帰りたい』って言われるのが一番辛いんだ。」と言って泣かれたこともありました。横浜に住んでいるときも、子どものことは良く思いだしましたが、とにかく一生懸命仕事をしました。主人が心配して、様子を見に来てくれたこともありました。私も時々札幌に戻ったこともありました。平成十五年まで働きましたが、主人にもうそろそろ帰りなさいと言われたし、私も充分勉強して働いたので、辞めて札幌に帰ることにしました。辞める時は、婦長さんに「辞めると言うと、患者さんが熱を出したり、血圧が上がったり、具合が悪くなると困るから、黙って帰って下さい。」と言われました。

札幌に帰ってきたときには、五十八歳になっていました。札幌に戻っても、それまでずーっと仕事をしていたので、家でじっとしていられなくて、すぐに職業安定所に行って仕事を探しました。そして整形外科病院を紹介してもらって勤めることにしました。

横浜の病院では、仕事の仲間の人も患者さんや家族の人も親切にしてくれました。いろいろお世話になったので、どうにか恩返しができないかなと思っていましたが、札幌の病院でも神奈川県出身の患者さんがくることもあり、そんな時は、恩返しだと思ってお世話をさせてもらっています。雪の日には、患者さんのコートや襟の雪を払ってあげるととても喜ばれます。

看護助手として仕事をしてきましたが、そのうちにヘルパーの制度が出来ましたので、頑張って、六ヶ月かかる講習を受けて、ヘルパー二級の資格も取りました。病院の先生は一人だけで、私よりも一つ年上です。その先生が「いつまで出来るかわからないけれど、できる限り続けていくので、一緒にやって下さいね。」と言ってくれているので、私も出来る限り続けていきたいと思っています。


高橋さんの発表
高橋(たかはし)さんの発表(はっぴょう)


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