全国夜間中学校研究大会
第57回 全国夜間中学校研究大会参加報告
2011年度
夜間中学校全国大会に参加して
札幌遠友塾受講生3年 山岡 みゆき
この度、12月2、3日の両日、大阪で行われた「夜間中学校全国大会」に、生徒の一人として参加してきました。
初めての大阪、初めて会う他の夜間中学の人々…私の胸はワクワクした思いでいっぱいで、最初は不安に感じていた朝早い出発も、実際には苦になりませんでした。
大会初日の午前中に、大学の先生である浅野先生の「ミネルヴァのふくろうたち」という基調講演を聞きました。少しスピードが速くて話についていくのは大変でしたが、一番最後に浅野先生は「5つの観点」として、夜間中学に必要なことを提言されました。
- 抑圧されている人々、疎外されている人々に関心を持ち続けること
- 夜間中学に入りやすい環境整備を行うこと
- 国や人種、障がいのあるなしで人を区別せず、どんな人も排除しないこと
- 不偏的な人間教育であること
- 生徒ではなく、ひとりの人間として接していくこと
これらは、夜間中学に限らず、日本の義務教育やこの社会にも必要なことだと、とても感銘を受けました。
さて、午後からは分科会です。
分科会では「夜間中学の現状と今後の夜間中学の在り方について」という領域分科会に出席し、いま現在の夜間中学の現状について報告を受けました。
遠友塾にも外国の生徒さんがいらっしゃいますが、他の夜間中学(特に近畿地方)は多国籍な学校が多く、朝鮮・中国・台湾を始め、ペルー・ネパール・フィリピン・ベトナム・ラオス・スペイン・タイ・セネガルと多種多様です。豊中中学などは、今年の入学者で日本人は0人だったそうです。
また,、若い世代(10代の帰国渡日の子どもや、小さい子どものいる母親)の生徒も多く、出席率の低下や学習能力の差をフォローするために家庭訪問などを行っている学校もありました。
関東地区の夜間中学となると様相が一変し、外国籍の方ではなく、引きこもりなどによる不登校児童が多くなるようです。しかし日本では、いくら不登校で学校へ行っていなかったとしても、義務教育修了者として卒業証書は渡されます。ですが、公立夜間中学へ通う場合は「卒業証書を受け取っていない人のみ」という日本のおかしな制度と法律のせいで、こういった(私も同じですが)学校へは通っていなくても卒業証書を受け取っている人(形式卒業者)は入学できないのだそうです。そのために関東地区では「えんぴつの会」という組織を創設し、形式卒業者やいま現在不登校をしている子どものために週2日の授業フォローをしているそうです。
それぞれの地区によって特性も問題も違い、ひとつにまとめて問題解決を図るのは難しいようですが、それでもそれぞれの学校スタッフの皆さんが、頭を抱えながらも生徒たちに真摯に向き合おうとする姿が印象的でしたし、公立中学だけでも自主夜間中学だけでも成りたせることができない、大きな問題が横たわっているように思えました。
大会初日最後の夜は、北九州地区から参加された方々と一緒に、東生野中学夜間学級の授業を見学しました。東生野中学は、工藤慶一さんのお話によると、日本で唯一「自分たちの校舎」を持つ公立夜間中学だそうで、校舎内もエレベーターが設置されるなど多くの工夫がされていました。自分たちの教室があり、机には自分の名前が貼ってあり、椅子にはそれぞれお気に入りの座布団やクッションが置いてある。少しうらやましかったです。
在日コリアンと呼ばれる方々が多くいる東生野中学。日本人の私はどう受け入れられるのか心配でしたが、私が授業を拝見させていただいたB組の生徒さんは、とっても私たちを歓迎してくださり、「遠くからよくいらっしゃいましたね」とねぎらってくださり、すぐに年の差も忘れて旧知の仲のような雰囲気になりました。生徒さんたちは、遠友塾で学ばれている皆さんと同じように、元気であり意欲的であり、休み時間となるとあちらこちらからお菓子が回ってきます。そして何よりも、先生と生徒の関係が「友達」のようで、その掛け合いはまさに「漫才」を見ているように楽しいのです。一番驚いたのは、黒板を綺麗にするときに皆さんは黒板消しを使いますよね?東生野中学では、黒板消しも使いますが、手の届かない場所はクイックルワイパーを使って黒板を消しているのです。そして見事に綺麗になるのです!これはうちの学校でも早速導入しようと、工藤さんと話したぐらいです。
授業は、ちょうど社会(歴史)と国語の日でした。歴史は朝鮮王朝時代の話で、遠友塾ではなかなか聞けない外国の歴史の授業です。しかもちょうどNHKで放映されているドラマ、「イ・サン」(正祖王/チョンジョオウ)の時代のことをやっていたので、私は大喜びです!反対に国語は平仮名の使い方に関する授業でしたが、私はすでに遠友塾では終えている授業だったはずなのに凡ミスをしてしまい、その時ばかりは鬼教官・守田先生の顔が浮かび、背筋に寒いものが走りました。
1教科40分の授業もあっという間。最後は簡単に交流(というより質疑応答)の時間が設けられました。私からは「修学旅行や体育の時間もあるのでしょうか?」という質問をしましたが、「もちろん修学旅行もあります。体育は卓球やバドミントンなどをしています」と先生からお答えをいただきました。
帰りは最後の生徒が校舎を出るまで、お二人の先生が外で見送りをしている姿が印象的で、私は東生野中学の校舎を眺めながら、何だかいつまでもそこに居たいような気持ちでした。
大会2日目にして最終日。私の心に残ったのは二つでした。
ひとつは、午前中の全体会が始めに、在日コリアンの方々が色とりどりのチマチョゴリを着て、「アリラン」など数曲を歌い踊ってくれたことです。カラー写真でお見せできないのが残念なくらい、それはそれは本当に美しい光景でした。
もうひとつは、午後から行われた生徒交流会です。各約50人ほどに分けられた全国の夜間中学生徒やスタッフの交流会で、まずは自己紹介から始まりました。その後は発言したい人が話したり、司会進行係の先生から当てられて発言したりという形でしたが、やはり外国籍の方が多いことから、小さい頃から学校で先生や生徒にいじめられ、差別され、学校の勉強どころではなかったという話が大多数でした。私も学校でいじめられ、先生にさえ見殺しにされた身としては、共感すると共に心の痛むお話でした。
そんな中でも天王寺中学へ通っておられる、小児ポリオを持つ日本人女性の話は衝撃的でした。電動車椅子に乗り、介助者の方と一緒に参加されていましたが、その方の歩んできた人生は壮絶なものでした。一見、50代かなぁと思いますが、実際の年齢はわかりません。彼女は平成4年(今から約20年前)まで実家に軟禁されていたそうです。ご両親は彼女が人目に触れることを怖がり、また「病気がうつるから」と兄弟たちを彼女から遠ざけ、「ごくつぶし」「生まれてこなきゃよかったのに」と何度も口にしたそうです。否定され続けた彼女も、自分の生きている価値を見出せず、何度も死のうと思ったそうですが、最後の最後までそれはできなかったと語っていらっしゃいました。「生きて外の世界に出たい」。それが彼女の願いだったようです。
そして平成4年、ボランティアの介助者さんやヘルパーさんに助けられながら実家を出たそうですが、初めて外の世界に出たとき、あちこちに出されている黒いゴミ袋が何かわからず介助者に尋ねると、「あれはゴミを入れた袋よ」と教えられたそうです。しかし、彼女にとっては、その黒いゴミ袋さえも美しく見えたのだそうです。
今は障がい者自立支援のための仕事をしながら生活しているそうですが、天王寺中学に通い始めるきっかけは、その中学校に通っているお友達からのお誘いだったとか。それまでも独学で勉強をしていたものの、独学であるがゆえに間違って覚えていることも多く、その友達の誘いを受けて、今でも元気に天王寺中学に通っているとのことでした。
彼女は最後に、そこに居る全員に向けて力強く言いました。「生きましょう」と。「どんな境遇であれ、逆境であれ、とにかく生きましょう。生きていなければ、何もできないのですから」と。そこに居る全員が励まされ、全員が勇気をいただけるような言葉でした。それは、どん底から這い上がってきた人間にしか言えない、心からの叫びのようでした。多くの人が彼女に握手を求め、「頑張ってください」と声を掛けました。彼女はもう弱者ではありませんでした。
この世の中には、多くのマイノリティ(少数者)があり、差別があります。国籍・人種・宗教・部落・病気・障がい・容姿・性的指向etc...と数え上げればきりがありません。差別される少数者の中で、更に差別が生まれることもあります。周囲が疎外され抑圧されている人々を差別せず受け入れることも非常に大切なことですが、私も多くのマイノリティを持つ人間として感じることは、周囲からどう評価されようと変えられることならとっくに変える努力をしているのです。変えられないものを持つ人間だからこそ、その「変えられないものを持つ自分」を受け入れて認め、「私としての生き方」を構築することも必要ではないかと思うのです。それを天王寺中学の彼女は成し遂げたように思います。
さまざまなハプニングも多かった大阪大会。帰りの便が新千歳空港の滑走路閉鎖のために欠航になり、スタッフの方々による努力のおかげで泊まる場所は確保できましたが、洋服も靴下も下着も服薬している薬さえも、2泊分しか持っていなかった私は焦りました。次の日にやっと乗れた飛行機も1時間遅れ。飛行機の窓から真っ白い北海道の大地を見たときは、さすがにホッとしました。頭の中では、完全に松山千春の曲である「大空と大地の中で」の、「果てしない大空と白い大地のその中で、いつの日か幸せを自分の腕でつかむよう」というフレーズがリピートされている状態です。大阪は面白い街だったけれど、やっぱり私は北海道が大好きで、この土地で生きて行くのが一番!そう思いました。
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