全国夜間中学校研究大会
第53回全国夜間中学校研究大会 参加報告
2007年度
生徒体験発表
広島市立観音中学校
坂井 ヒサヨさん 発表文
私は昭和十四
年六月に父福市と母サヨの間に生まれました。父は明治八年、母は明治二十八年の生まれで、両親とも再婚でした。母はわたしを生んで二年後に亡くなりました。父はとてもきびしい人だったそうです。姉は掘りごたつで三歳のとき火傷をして、野口英世のように片手の肘からしたがやせて手の先は丸くなっていました。姉はご飯を食べるとき、丸い手の上に茶碗(ちゃわん)をのせて食べていました。姉が茶碗を落とすと、父は寝ながら食べるからだと言ってなぐったそうです。それでも、わたしにはとても優しい父でした。父は朝起きたら、赤白で鼻緒をつけた藁草履を作ってくれたり、桐で下駄を作ってくれたりしました。
わたしは十人兄弟の中の七女ですが、生まれたときにはすでにわたしを入れて四人でした。皆、事故(じこ)や病気で死んだそうです。兄、姉二人の三人が出かせぎに行って、わたしは父と二人で暮らしていました。ある日、父は朝四時に起きて牛のエサを作るのに枝木をくどにくべる時に倒れて亡くなりました。くどは父が寝ている所から寝たまま手を伸ばせば届く距離に据え付けてありました。体半分を土間のくどに投げかけるようにして倒れていたのです。私は四歳半でしたので父が死んだことはわからないので、父が死んだ後で、ご飯を食べて遊びに行っていました。昼が来て、「帰ってお父さんとご飯を食べておいで。」と言われ、「お父さんは寝ていて起きられない。」と言ってから、家に帰って一人でご飯を食べて、また遊びに行きました。父が死んだことは、午後三時ごろ近所のおばさんが見つけてくれてわかったのでした。
それから、兄弟が集まり三年くらいは一緒にいましたが、すぐ上の姉は嫁に行き、そのうち一番上の姉も嫁に行きました。一番上の姉はわたしより十三歳上でした。わたしはその姉を母のようにしたっていましたから、いつも姉が嫁に行った先に、三里歩いて会いに行きました。
学校は、生まれた所の学校に三年生の一学期まで行きました。当時わたしは学校を休みがちで落第しそうになっていました。小原先生という先生がとても可愛がってくれました。先生の家にも子どもが六人もいるのに、わたしを家に連れて行ってご飯をたべさせてくださったり、娘さんのスカートをはかせてくださったり、とても優しくしていただきました。その小原先生が、わたしに教室で九九を言いなさいと言われ、わたしが九九を言ったら、休んでいてもそれだけできるのだから学校に来なさいと言われて、落第しなくてすみました。
三年生の二学期は、姉の嫁ぎ先の学校に行っていました。昭和二十五年に姉に子供が生まれ、生活が苦しくなったので、私は十歳のときに、民生委員の人と兄に来待の施設の八雲学院という所に連れて行かれました。そこで、明治生まれの大塚先生に出会い、いろんな事を心の修行だと教わりました。施設からは学校に通えませんでした。八雲学院には十五歳までいました。
昭和三十年の四月に児童相談所に行きました。そして、六月十三日のわたしの誕生日に相談所の所長の親戚の方に世話をしてもらい、江津の旅館に就職しました。でも、夜は二時に寝て朝は四時に起きて働く生活がつらくて四ヶ月でやめました。 それから、施設で一緒だった人が出羽にいたのでその人をたずねたのです。あいにく留守だったので、出羽で仕事をさがして三ヶ月ほど働きました。
その年の十二月のことでした。わたしは、その辺のおばさんが、「この前広島に行ったらあっちこっちで働く人を募集していた。」と話しているのを聞き、広島に働きに行くことにしました。まず、交通費を工面するために、今まで買った物を一軒一軒訪ねて売って歩きました。そうしてバス代をつくって広島に出てきたのです。昭和三十年の十二月二十九日のことです。
広島に着いたのは夜の八時頃でした。昼に着けば、安定所に行って仕事を探すつもりでしたが、どこに行っていいのかわからないので、駅前の橋を二三回行ったり来たりして考えていました。「旅館に案内しましょうか。」と声をかけられましたが、「けっこうです。」と言って断り、駅前の店に飛び込んで、「仕事を探しています。」と言いました。
そこのママさんは、とてもいい人で、「この辺で働く人を募集している所は売春宿で、入ったら自然と借金が増え足が抜けなくなる。」と教えてくれました。当時は、まだ売春のあった時代でした。そのママさんの所は昼は食堂をしていて夜は飲み屋をしていました。わたしは未成年でしたので、食堂や飲み屋の仕事を手伝いながら、年が明けた一月七日までその店においてもらいました。
店にきていた客のお姉さんが食堂をしているからそこで働かないかとママさんに言われ、その食堂に連れて行ってもらいました。そこで三年つとめました。その食堂は、息子長男がわたしに熱湯をかけたり、いじめるのでやめたのです。
島倉千代子の歌の中に「人生いろいろ」と言う古葉がありますが、わたしの人生も一口では語れないくらいいろいろな苦労がありました。学歴がないことはとてもみじめなことです。履歴書が書けないことで就職をあきらめた仕事もたくさんありました。当時、履歴書を出さなくてもよかったパチンコ屋、飲み屋、食堂と職をてんてんとしました。習い事をしても実地
は
出来ても学科がだめ、字が読めないばかりに大変苦労しました。死のうと思ったことは八回もありました。神様は不公平です。まだまだ生きてよいと思っている人は早く亡くなり、わたしは死にたいと思っていても、いつも病院で目が覚めたら生きていました。三十歳くらいまではいつも死にたいと思っていました。
そんなわたしに転機がおとずれたのは昭和四十九年、わたしが料理屋の「ますゐ」に勤めるようになった三十五歳のときです。ますゐに入ってからは気持ちも落ちつきました。わたしに、ますゐの水があっていたのだと思います。わたしがますゐに入ったときはまだ国民年金でしたが、五十一年から厚生年金にしてくださったので、とても感謝しています。旅行にもあちこち連れて行ってもらって、うれしかったです。平成十四
年三月の人員整理で辞めたとき、わたしは六十二歳でした。
最後に夜間学級のことを話します。ますゐを辞めた次の年に観音にひっこして来てから、人の紹介で漢音中学校夜間学級に入学しました。小学校3年生の一学期で止まっていた学校に、やっとまた入ったのです。わたしは、六十四歳になっていました。学校からは遠足に行ったり、似島に野外活動に行ったりしました。先生方もとても良い先生ですのでわたしも嬉しく思っております。遠足の時はお弁当の大荷物を下げて行きます。クラスメートの人もおいしい韓国料理を持ってきて、ごっそうを分けて食べます。先生にもごちそうします。おしゃべりをしながら食べて楽しいです。
最近一番印象に残っていることは、椎間板ヘルニアの手術をし、三月、四月、五月の三ヶ月間入院したことです。お医者さんからは、手術をしなければ車椅子での生活になると言われました。手術の後も「車椅子になったらどうしよう。」と三日間泣いてばかりいました。ほんとうに恐かったです。入院中は、友人、知りあい、そして先生方に面会にきてもらってとても嬉しかったです。御陰様で今はたいへんよくなりました。今、わたしがここにあるのは、皆様のお陰です。そして、今わたしは青春をおうかしています。
わたしの半生と二度目の学びとの出会いをお話しました。長い話を最後まで聞いてくださりありがとうございました。坂井ヒサヨ、今六十八歳、観音中学校夜間学級の三年生です。
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