札幌遠友塾自主夜間中学 20年の集い
生活体験発表
山本 孝子 さん(札幌遠友塾卒業生)
みなさんこんばんは。平成17年度卒業生の山本孝子です。
私は昭和12年に6年生を卒業してから親と一諸に、満州の開拓団に行きました。それは山奥の開拓団で昭和15〜20年までは作物もとれて、大変裕福な生活をしておりました。どこに戦争があるのか分からないような生活でした。それから昭和20年8月、避難せよという通知がきましたので、それから着の身着のまま20日間、川を渡り、山の中を逃げて歩きました。年寄りの人は毎晩夜になったら、どこに行ったのかいなく、だんだん少なくなっていきまして、小さい子どもは歩けなく、食べ物がないので、道端にごろごろと生きたまま投げて、捨ててありました。それから20日間歩いたある日、ソ連の兵隊が山に上がってきて、ソ連の捕虜になって、収容所に入れられました。それから、ひと冬、食べるものがなく、寒く、発疹チフスが始まって、もう何千人という人がぼろぼろと亡くなっていきました。その頃のこと、今でもまだ思いが残っております。それから、私の両親と妹、弟と亡くなりまして、私は中国人のお世話になって、貧しい田舎でしたので、字を書くとか、本を読むとか、そういう暇など一切なく、苦しい生活の中、8人の子供を育てて、貧乏で子供たちは小学校しか入れておりません。1番上の娘は4年生から子守りをしていただき、私が働くので子守りさせ、4年生しか行っていません。
それから子供もだんだん大きくなり、昭和56(1981)年に日本と中国の国交回復で、日本に帰って来ることができました。昭和56年に帰ってきたときは、私はもう54歳でした。それでも働かなくては食べていけないので、市民生協の中に靴修理の仕事でテナントとして入れてもらって一生懸命働きました。それで子どもを一人一人こっちに、日本に呼んだりして、今はみんな日本におりますが、長女と次女が遠友塾のお世話になって、学校に入って、字を書いてきてから、いろいろ話を聞いて、お母さんも行ったらいいんじゃないと言うので、私はもうすることもないし、家にひとりでいてもつまらないので、塾に子供が申し込んでくれて、塾に入りました。
そしていろいろ不安もありました。字も読めないし、算数なんかどうしようかと不安でした。先生方が一生懸命教えていただくので、字はひとつひとつ覚えた時の喜びとか、字が読めるようになった時の喜びとか、歴史とか昔を思い出しながら聞いておりました。算数も先生方が教えてくださいました。とても楽しい学校生活でした。
それから17年に卒業いたしまして、それからひとり家にいるのが、とても寂しい。今でも寂しいです。これからも塾に入れてくれるなら、今年82歳になりましたけれど、もう1度勉強したいと思います。学校へ来たら、先生方のやさしいのと、みんなの笑顔、とても楽しい思い出のある勉強でした。これからもお友達とか子供たちとかみんなに紹介して、こういう学校があると紹介して、たくさんの人に入っていただきたいと話し努力いたします。口べたですみません。
※ 司会
より、山本さんは現在1年クラスに通っている高島秀子さんのお母さんでもあることの紹介あり。
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