札幌遠友塾自主夜間中学 20年の集い
生活体験発表
近藤 朝子さん(札幌遠友塾卒業生)
(当日、近藤さんは欠席のため、スタッフの工藤朱美さんが文章の記憶をたどって発表)
こんばんは、近藤朝子ではありません、工藤朱美です。
近藤さんとはここ1ヵ月近く、あがり症なので何を話したらよいか分からないということだったので、メモに書いたものを持ってきてください、そうしたらふたりで考えましょうねと、二人で話し合いながら文章を作りました。それがさっき始めるまえになって熱が出てしまったということなので、私が記憶にあってポイントを押さえているところがありますので、そういうところをお話したいと思います。
近藤朝子さんは、1936(昭和11)年3歳の時におじさん一家と一緒にパラオに移住しました。そのあと戦争が激しくなり、ほとんど学校には行くことができず、竹やり訓練などに駆り出されていたということです。後に父親は結核で亡くなり、戦争が終わって1946年パラオから最後の引き上げ船で帰国し北海道に住みました。引き上げ船の中では大事に大事にしていた教科書をアメリカ兵に海に捨てられ、その悲しい思い出は今でも忘れることができないそうです。
北海道に住んで、新しい憲法の下で、やっと教育が受けられると思っていたのですが、10歳と7歳の妹さんたちは、小学校に入学することが出来ましたが、近藤さんは母親の手ひとつで、お母さんが愚痴も言わずに一人で働いていたものですから、お母さんのことを考えて、学校に行きたいとは決して言えませんでした。そして近くのアイスクリーム工場でアイスクリームのカップを作る仕事をしていたということです。アイスクリームは食べたことはないと言っていました。その後ずっと働き続けたあと、縁がありまして、23歳で結婚。1男1女の子供さんに恵まれました。
やっと子供さんが成長して時間がとれて、遠友塾に通い始めて、漢字を学び、パラオの位置を地図で初めてたしかめることが出来たそうです。その時に夫が肺がんになり、途中で遠友塾を一度退塾しました。夫が亡くなってから再度遠友塾に来られました。そして3年そのあと2年かかって卒業されました。国語の授業で向田邦子の「ごはん」というエッセーを読んで、初めて、そのプリントの余白に自分の言葉で、戦争は決して人を幸せには出来ないと書きました。もっと素晴らしい言葉だったんですが・・・そういう内容だったんですが、表現はとてもすばらしかったです。
その後近藤さんは通信制の有朋高校に入学します。入学するかどうかずっと迷っているときに、ある日夢の中にお母さんが現れ「朝子、勉強しなさい。絶対学校に行きなさい」と言ったそうです。その言葉は、お母さんが92歳で亡くなるまで、ずっと思い続けていた言葉だと思っているそうです。その言葉のおかげで高校に行く決心がつきました。今はなんとか頑張って有朋高校を卒業して、亡きお母さんと夫に、卒業証書を見せ、うれしい報告をしたいと願っています。
このような内容でした。
* 後日、近藤朝子さんから発表しようとした原稿をいただきましたので掲載します。
第一次大戦後、日本の委任統治領になった熱帯の島パラオ。1936年、私は北海道を離れパラオ島に移住しました。まだ3歳の時で、母親の伯父さん一家と一緒でした。小学校4年生の時、太平洋戦争が始まり、空襲で校舎が全壊しました。授業はなくなり、月明りの下、校庭で手榴弾投げや薙刀訓練をしました。行きたかった女学校も壊されました。それでも「いつか勉強できる日が来る」と思い、兄姉が使ったお古の教科書を大切に持っていましたが、1944年に父親が肺結核で死亡。終戦後、親戚を頼って帰ってきました。引き揚げ船に乗る時に米兵の検問で教科書は取り上げられ、目の前で海に投げ捨てられました。船に乗って十日くらいで日本に着きました。父母の古里で暮らし始めて、10歳と7歳の妹はそろって小学校1年生になりましたが、母子家庭5名が生きるため、13歳の私はアイスクリームのカップ製造工場で働きました。
「学校に行きたい」と口に出せなかったのは、愚痴一つ言わず働く母を見習ったからです。辛い事は呑み込んで働き続けました。1947年、教育の機会均等を定めた「教育基本法」と「教育を受ける権利」を記した憲法が施行されました。中学3年の年齢だった私に就学通知は届かなかったのです。
戦争と戦後民主主義のはざまで学ぶ機会は失われてしまいました。でも私の母は強い人で、私に4年間も編物、洋裁、和裁を習わせてくれたのです。23歳で結婚、一男一女の母になり、子供の衣服は中学生まで私がつくりました。漢字が書けないので書類や手紙はすべて夫が代筆しました。字を書くことの大切さを、今頃気付いています。
1990年北海道新聞に遠友塾の記事が載っていました。私もその時の新聞をいまでも持っています。それは何か学校に行く事が出来るような気持がしたのです。1998年に私も遠友塾に入れていただき一筋の道が開けたのです。遠友塾で英語でABCと教えて頂いた時は、今までの苦労が飛んでいきました。翌年夫が病気になり、通学を断念しました。2004年再入学し、字を習い、歴史を学び、世界地図でパラオ島の位置がわかりました。学ぶことは刺激的です。国語で向田くに子さんの「ごはん」の余白にこう書きました。「戦争は大勢の人の人生を踏みにじり、家族に悲しみをもたらすもの」初めての自分の言葉でした。2004年再入学したとき私は70歳になり、毎週夜2時間、札幌遠友塾自主夜間中学校に5年間通い、昨年春楽しかった遠友塾を卒業しました。
戦争で学習意欲を阻害されましたが、ようやく高校生活に辿り着き、入学式では感動しました。入学を勧めて下さった先生方には感謝いたします。私が有朋高校に行くか行かないか迷っている時、朝方6時頃に、私の枕元に92歳で亡くなった母親が現れ、「朝子、学校に行きなさい」と一言話して消えたのです。母親の思いを抱き、頑張って卒業証書を亡き母と夫に報告したいと思っています。北海道に帰って64年が過ぎ、私も76歳になりました。夢見る夢子さんも終わりです。
本当にお世話になりました。
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